テントに入って最初に驚いたのは、味ではなく音だった──オクトーバーフェストの音楽と《Ein Prosit》

ミュンヘンのテレージエンヴィーゼ(Theresienwiese)。オクトーバーフェストの会場に着いて、私たちシュマッツが最初に面食らったのは、ビールの味ではありませんでした。
音です。
テントの重い扉を開けた瞬間、隣に立っている人の声が聞こえなくなりました。何か言っている、口が動いている、でも届かない。ビールを注文するまでの数分、私たちはただ立ちすくんでいました。
オクトーバーフェストの写真はたくさん出回っています。でも、あの音は写真に写りません。今日はその話を。
◯ 扉を開けた瞬間、声が届かなくなった
テントの外は、思ったよりも静かでした。屋台の呼び込みと観覧車のモーター音があるくらい。
その扉を開けると、世界が切り替わります。壁のように音が来る、という言い方がいちばん近い。耳が痛いというのとは違って、演奏と何千人の話し声が、振動としてそのまま体に届いてくるんです。
「うるさい」ではなく、「濃い」
最初は単純にうるさいのだと思いました。けれど数分立っていると、うるさいという言葉が合っていないことに気づきます。
音が層になっているんです。いちばん下に何千人の話し声が敷いてある。その上に食器とジョッキがぶつかる硬い音。さらに上に、金管の旋律が乗っている。この3層が同時に鳴っていて、どれかを聞こうとすると他が消える。
大テントは、屋内と屋外をあわせて8,000席から9,000席という規模のものがあります。その人数の会話が同時進行している空間に、生演奏が加わる。音が濃くなるのも当然だと、あとから納得しました。
◯ 音の出どころは、天井ではなく中央だった
大きな会場に入ると、私たちはつい天井のスピーカーを探してしまいます。
ところがここでは、音は上から降ってきません。フロアの中央から来ます。長いテーブルの海のちょうど真ん中に演奏台が据えられていて、そこに生のバンドが立っているんです。
舞台と客席が、分かれていない
これがオクトーバーフェストの音の設計だと思いました。
演奏者はお客さんに360度囲まれていて、テーブルはその周りに放射状に広がっている。前を向いて座る客席がなくて、音の中心に、飲んでいる人たちがいる。
だから「ステージを見る」という姿勢になりません。演奏はどこか一方から届くものではなく、自分がいる場所そのものが鳴っている。この構造が、あとで書く「参加している感じ」の正体だったと思います。
◯ 演奏台にいたのは、ロックバンドのような人たちだった
オクトーバーフェストの音楽といえば、管楽器の楽団を思い浮かべる方が多いと思います。ブラスカペレ(Blaskapelle)。ドイツ語の Blas は「吹く」、Kapelle は「楽団」で、バイエルンの村祭りやビアガーデンでずっと鳴ってきた編成です。
ところが、私たちが演奏台で見たのは少し違いました。エレキギターやドラム、キーボードを構えた、ロックバンドに近い編成の人たちが立っていたんです。
あとで知ったのですが、テントは時間帯によって立つバンドが替わる決まりがあるそうで、私たちが行った時間はこちらのバンドの担当でした。夜の枠を30年近く同じバンドが受け持っているテントもあるそうで、「あのテントのあのバンド」で選んで来る人がいるというのは、なかなかいい話だと思いました。
💡 低音があるから、話し声に負けない
このバンドにも、トランペットのような金管は入っています。聞いていて印象に残ったのは、その低音でした。
旋律の下で、低い音が場を支えているんです。低音は人の声の帯とぶつかりません。だから何千人の話し声の層を突き抜けて届く。理屈にすると当たり前のことですが、体で受けると発見でした。
💡 鳴っていたのは、ドイツの曲だけではなかった
曲目も意外でした。ドイツの流行歌やバイエルンの定番に混ざって、誰でも知っている洋楽が来るんです。
日本の飲み会でも耳にするような曲が、金管とアコーディオンの音で鳴っている。テント全体が声を合わせて歌う。「伝統の祭り」という言葉から想像していたものより、ずっと開けた場所でした。
◯ 1時間に2、3回、全員が立ち上がる
飲みはじめて30分ほど経ったころ、演奏が急に止まりました。
一瞬の静けさ。そして、聞いたことのある旋律が始まります。
《Ein Prosit der Gemütlichkeit》という短い歌
《Ein Prosit der Gemütlichkeit》(アイン・プロージット・デア・ゲミュートリッヒカイト)。
「Prosit」は乾杯、「Gemütlichkeit」は居心地のよさ、くつろぎ、あたたかい雰囲気といった意味の言葉です。日本語にぴったり移せない単語で、あえて訳すなら「このくつろぎに、乾杯」。
歌詞はほとんどこの一行しかありません。20秒ほどで終わります。そして最後の「アインス、ツヴァイ、ドライ、ズッファ!(1、2、3、飲め!)」で、テント全体がジョッキを掲げます。
私たちが驚いたのは、誰も指示していないことでした。旋律が始まった瞬間に、みんな自然にベンチの上に立ち上がる。旅行者も混じっているのに、全員が同じタイミングで動く。あの一体感は、正直に言って予想していませんでした。
💡 これが、1時間に2、3回来る
この曲、テントでは平均して1時間に2、3回演奏されるとされています。ドイツの音楽著作権団体の調査でも、オクトーバーフェストでいちばん多く演奏されている曲だと報告されています。
つまり、席に座っていれば20分から30分に一度、必ず立ち上がる機会が来る。この周期が、テントの熱が下がりきらない仕掛けになっています。
面白いのは、この曲がバイエルン生まれではないらしいということ。作者は北ドイツの人物とされ、その旋律をニュルンベルクの出店者が1898年にミュンヘンのオクトーバーフェストへ持ち込んだ、という経緯が伝えられています。バイエルンの象徴のような曲が、外から来て根づいた。ビールの世界にもよくある話で、私たちはこういう話がわりと好きです。
◯ 満杯のマスは、2キロを超える
さて、立ち上がってジョッキを掲げる。この動作、思っていたより大変です。
オクトーバーフェストのビールはマス(Maß)、1リットル単位で出てきます。その器がガラス製で分厚い。空の状態で約1.3キロ、ビールが1リットル入ると合計で約2.3キロになるとされています。2リットルのペットボトルを想像してください。それを片手で、胸より高く掲げる。しかも20分おきに何度も。
ちなみに、なぜ陶器ではなくガラスなのか。入っている量が外から見えるからです。目盛りの線が入っていて、注ぎ量をごまかせない。許容誤差もきちんと決まっていて、この律義さがいかにもドイツらしいと感心しました。
💡 だから、縁ではなく厚い底で合わせる
この重さを知ると、乾杯の作法にも理由が見えてきます。現地では、ジョッキの縁ではなく、分厚い底のあたりで合わせます。上の縁は見た目より繊細で、勢いよくぶつけると欠けることがあるからです。持ち手に指を通して握り、腕をまっすぐ伸ばして、底同士でゴンと合わせる。
2.3キロの器を勢いで振れば、狙ったところに当たりません。だから底で合わせるのが安全で、音も気持ちがいい。作法というより、重さから生まれた合理です。
そして目を見て「Prost!」。ここは省略されません。数人でも十人でも、順番に目を合わせます。
◯ あれは、聴く音楽ではなかった
テントを出たあとに気づいたことがあります。
私たちはあの数時間、一度も「演奏を鑑賞」していなかったんです。
💡 歌詞が一行しかないことの意味
《Ein Prosit》は20秒で、歌詞は実質一行。だから初めて聞いた人でも、2回目には口が動きます。「アインス、ツヴァイ、ドライ」は数字を数えているだけなので、ドイツ語が分からなくても言えてしまう。
参加できるように作られているんですね。上手に歌う必要も、曲を知っている必要もない。旅行者が混ざっても一体感が崩れなかったのは、たぶんこれが理由です。
💡 音が、人の距離を縮めていた
あの音量の中では、会話も変わります。大声で短く話す。要点だけ言う。肩が触れる距離で顔を近づけて話す。
普段なら少し照れるような距離感が、音のおかげで自然になる。知らない人と乾杯できたのも、音が背中を押していたからだと思います。音が場所を作り、場所が人の距離を決めていた。 ドイツのビール文化については本場ドイツのビールの楽しみ方にもまとめていますが、この感覚は現地で初めて分かりました。
◯ テーブルで音を鳴らすと、何が変わるか
帰りの飛行機で、私たちはずっとこの話をしていました。
ビールは確かに美味しかった。木樽から注がれたヘレスの澄んだ味は忘れられません。でも、あの高揚を作っていたのはビールだけではなかった。
もちろん、静かな部屋でひとりで飲む夜にもその夜の良さがあります。ただあのときの跳ね方は、音がつくっていた。それははっきり分かりました。
だから、もし家で誰かとテーブルを囲むなら、飲みものと料理のほかにひとつだけ音を用意してみてください。ブラス音楽のプレイリストで構いません。そして1時間に一度、みんなで立ち上がって「Prost!」と言ってみる。グラスは縁ではなく、しっかりした下のほうで合わせる。それだけで、テーブルの温度が変わります。
◯ 乾杯の音を、鳴らしに来てください
私たちシュマッツは、2026年9月1日から10月31日まで Schmatz Oktoberfest 2026 を開催します。
期間中のレストランには、この時期だけのメニューとドイツのビールをご用意します。大人数でテーブルを囲んで、乾杯の号令をかけてみてください。目を見て「Prost!」。それだけで、あの夜のテントに少し近づきます。お店は店舗一覧からご覧いただけます。ご予約もこちらから。
お祭りそのものの成り立ちは、歴史から現地の様子まで完全ガイドにまとめています。読んでから飲むと、たぶん1杯目の味が変わります。
今年の秋、どこかのテーブルでお会いできたら嬉しいです。
アインス、ツヴァイ、ドライ── Prost!